どうしていじめは無くならないのか考えたことはありますか?
人はどうしても差別してしまう生き物であるという視点が必要だと私は考えます。
〇「人は差別する生き物である」
さて、今回は堅苦しいお話になってしまうかもしれません。
いじめ、人権問題についてのお話です。
教師という職業は人権問題に関わることが多々あります。
残念なことに生徒が口にしてしまう、クラス内での差別的な発言。
それがエスカレートしてのいじめ問題。
外国籍の子に対しての差別、または地域で障害のある方や高齢者の方、病気の方への差別など、子どもたちは意識的・無意識的問わず、ときにそういった差別をしてしまいます。
私は担任として、また社会科教師として、生活指導担当として、様々な場面で人権問題について子どもたちに話をします。
これは教員として当然のことですが、私は子どもたちに伝える際に重点を置いて話すことがあります。
それは「人は差別をする生き物である」ということです。
これは差別を容認するための言葉ではありません。
みなさん、子どもたちに「差別は許されると思うか?」もしくは「いじめはやって良いことか?」問いかけてみてください。
99%の子が「NO」と答えるはずです。
実際、私が全校生徒に問いかけたときも全員がNOでした。
つまり、ほとんど全ての子が、差別やいじめは許されないと認識しているわけです。
では、この社会で差別はないのでしょうか?
様々な差別は無くなっていないし、学校現場でもいじめは根絶されていません。
これが一体どういうことなのかを考える必要があります。
〇 大切なのは「自分も今まさに差別しているかもしれない」という視点!
差別やいじめについて子どもたちに考えさせる際に陥ってしまいやすいのが
「差別はダメだよね。だからやめようね」という構図です。
幼い頃から家庭で、学校で、地域でそう教わってきた子どもたちは「差別はダメ」と分かっているんです。
でも、その認識は自分の外側にあります。
「差別はダメだよね。だから私しないよ。してないよ。」
差別はいけないということだけがお題目のように耳から入ってきていて
「他人事」になってしまっているのです。
だから差別もいじめも無くならない。
差別もいじめも自分とは関係のないものになってしまっているのです。
電車で黒人の人がいたらなんとなく避ける。
でもそれは「自分の事」として捉えられていないのです。
だからこそ伝えなければいけないことが
「人は差別する生き物である」ということなのです。
人間は弱いです。
集団の中で自分が一番下層だとは考えたくない。自分より弱い人を見つけたい。
また、知らないもの、変なものは怖い。
故に人は差別をします。
それは「誰かが」差別をするのではなく、「自分も」差別をするということを意味しています。
差別やいじめについて考えさせる際には、
「自分も今まさに差別しているかもしれない」
という視点を入れる必要があるのです。
これはもちろん子どもたちだけではなく、我々大人にも言えることです。
今この記事を偉そうに書いている私だって差別をしているかもしれない。
絶え間なく「自分は今差別をしていないか?」自問自答することが差別を無くすことにつながると思うのです。
人権問題は生きている中で大なり小なり避けて通ることはできません。
児童・生徒に、自分の子どもに、もし差別について話をする機会があったら、「人は差別する生き物である」、だからこそ「自分も差別しているかもしれない」と考えてみようと伝えてもらいたいです。
「他人事」ではなく、「自分の事」として差別やいじめについて考えられる子どもたちを育てていきたいですね。
以上、いじめや人権問題について私の意見でした。
教員をする以上、いや大人である以上、子どもたちに人権問題について語れなければいけないと私は思っています。
そのためにはまずは見本となる大人であること。
まずは大人が「他人事」ではなく、「自分の事」として「自分は今差別をしていないか」考える必要があると思います。
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