野球選手は、いやスポーツ選手は何がきっかけで、いつ芽が出るか分かりません!
指導者も保護者も、焦らずに選手の成長を待つこと!
そして、芽が出るきっかけを作る努力をしましょう!
〇全く目が出なかった中学時代。
私は幼いころから父親の影響で野球が大好きでした。
野球経験が無い父親でしたが、小さいころから私と公園でキャッチボールをしてくれて、その頃からプロ野球選手になることが夢になっていました。
小学生低学年のときは友達と毎日のように公園で野球をし、小学4年生になったときに小学校の野球部に入部しました(当時、秋田県では学校の部活動として行っていました)。
しかし、私は幼いころは極度の運動音痴でした。
100m走20秒、マラソン大会は毎回ビリ、泳げない、逆上がりができない、二重跳びができない…。
全部本当のことです。
その結果、小学6年生になって、なんとかファーストやライトで試合に出してもらえるようにはなりましたが、「活躍する」とはほど遠い状況で、チームメイトからもよくバカにされたことを覚えています。
そんな中でも野球は好きでした。
中学生になっても、野球部に入部しました。
相変わらず運動は得意ではありませんでしたが、小学生のときと違ったのは身長が大きく伸びたことでした。
150cm、50kgで入学した私は中学3年生のときに175cmまで伸びました。
ただ、栄養が全て身長に取られたため、体重は46kgと入学時よりも減りました笑。
スーパーモデル並のガリガリになっていったわけですが、身長が伸びて痩せたことで、足が速くはないですが、普通の速さくらいまでになりました。
もちろんまだまだ主軸として活躍とまではいきませんでしたが、3年生時には6番ファーストで毎試合出してもらえるようにはなりました。
この頃、唯一得意だったことがトスバッティングでした。
ペアの子にもよりますが、余裕で100回は続けられるくらい得意でした。
おそらくバットの軌道が綺麗だったんでしょうね。
試合でもヒットを打つときは綺麗なセンター返しが多かったです。
弱小チームだったので、試合で勝ったことはほとんどありませんでしたが、休むことなく活動に参加をし、中学野球生活を終えました。
中学野球引退後、キャプテンを始め、数名の選手は地元県立高校の練習会への参加の誘いを受けていました(野球推薦というわけではありません)。
しかし、平凡な選手だった私は特にそのような話も無く、同じくなんとかレギュラーだった友人や控えだった友人たちが「高校では野球をやらない」と言っている話を聞き、「自分もここらへんが限界かなあ」なんて考えるようになっていました。
このころには「甲子園」だとか「プロ野球選手」だとかといった目標はとうに消えていましたね。
〇指導者のたった一言の言葉で変わった高校時代!
普通の県立高校に進学した私は、特にやりたいことがありませんでした。
もはやそれほど野球にも興味が無くなってしまっていましたが、幸か不幸か、入学した際に隣の席が隣の中学校野球部でファーストを守っていた子でした。
同じファーストでも向こうは180cm90kgくらいの大柄な体型で、主軸を打っていた選手です。
会場で会っても別に話したことはありませんでしたが、向こうは覚えていてくれていたようで、「野球部入るっしょ?」と話しかけてきました。
その子は坊主頭で野球部に入る気満々な様子、こちらはボサボサ頭でした。
まあちょっと変なやつだったのですが、なんとなく誘われるがままに一緒に見学に行き、なんとなく誘われるがままに一緒に入部してしまいました。
初めはほとんど練習にはついていけませんでした。
レベルも高く、実力的にもレギュラーを目指すとかそういうレベルでは無いというのは見学時点から感じていました。
ただ、同じ学年の友人はとにかくおもしろい人たちばかりで、それだけが楽しみで野球部に居続けたようなものです。
ポジションもキャッチャーにコンバートさせられました。
これは、期待されてのことではありません。
将来性も無いし、他のポジションを守っていてもレギュラーの可能性は無いので、それならばブルペンキャッチャーでもやってもらおうかというコンバートだったのだと思います。
3年生が引退し、友人たちが試合に出るようになっても、私が試合に出ることはほとんどありませんでした。
ほとんどモチベーションも上がらず、ただ練習をこなしていた1年の冬、そんな私に転機が訪れます。
その日私は室内でシャトル打ちをしていました。
モチベーションが低かった私はストレスをぶつけるようにシャトル打ちで普段はしないような無理なフルスイングを繰り返し、ストレスを発散させていました。
シャトル打ちなのにたまに空振りするくらいのむちゃくちゃなフルスイングでした。
そこにコーチが声をかけてきました。
「しまった。怒られる。」
と思った私でしたが、コーチが言った台詞は私の予想とは全く異なることでした。
「いいぞ。そのフルスイング、俺は好きだな。おまえはスイングは綺麗だったけれど、思い切りが足りなかった。そうやって空振りしてもいいからフルスイングを続けていけばおまえのバッティングは絶対に伸びるよ。今はまだ細いけど、これから身体も大きくなればホームランだって打てるぞ!」
と、褒めてくださったのです。
これは全くの偶然でしたが、こんな自分でも見ていてくれた人がいたんだと本当にうれしかったことを覚えています。
ここからコーチの言ったように私のバッティングは急激に伸びていきました。
褒められたことがきっかけになり、練習にも力が入るようになり、今度は意識してのフルスイングを続けるようになりました。
嫌いだったウェイトトレーニングにも積極的になり、食事もしっかりと摂るようになりました。
練習後にバッティングセンターにも通うようになり、明らかにスイング数が増えました。
こうした努力の結果、2年生の春にはバッティングで頭角を表すようになってきました。
フリーバッティングでの打球が鋭くなり、外野を越える当たりも多く打てるようになってきたのです。
春の大会はベンチ入りできませんでしたが、その春の大会でチームは予想外に早々に敗退(首脳陣的にはもう少し勝ち上がれるつもりだったようでした)。
その結果を受け、首脳陣は夏の大会に向けてオーダーを見直すことにしたのです。
そこで私に声がかかりました。
監督さんに呼ばれ、代打で試合に使うからスタンバイしておくように言われ、春の大会後最初の練習試合で代打出場。
そこで、即センター前ヒットと結果を出した私は、続く練習試合でも良い当たりを連発することができました。
「代打としてベンチに入れるかもしれない」
これだけでも嬉しかったのですが、ここでさらなる提案がありました。
「外野はできるか?」
正直、自信は全くありませんでしたが、「できます!」と答えた私はほとんど外野守備の練習をしないまま7番レフトで初めてのスタメン出場。
幸いなことに平凡な打球しか飛んで来なかったため、ボロが出ず、ヒットも放つことに成功。
その後、数試合ライトやセンターなどのポジションを試されたのち、夏の大会でもらった背番号はなんと8。
一桁番号がもらえたのです。
夏の大会で結局守ったのはレフトでしたが、自分でも驚くほどのサクセスストーリーでした。
夏の大会でもチームの初得点となるタイムリーを含む3本のヒットを打ったことを覚えています。
そこから新チームでは副主将で3番か4番。
さすがに外野守備ができないことはバレてファーストになりましたが、それまでの野球人生を思えばあり得ないような活躍だったと思います。
↑私に声をかけてくださったコーチの方は現在高校野球の監督としてご活躍なさっています。優秀な指導者だと思います。
〇高校で野球をやめるはずが…
高校2年生でブレイクし、順風満帆だった私ですが、冬に落とし穴がありました。
冬場、私の高校ではひたすらに走り込むのが定番となっていました。
いろんなランメニューがありましたが、グラウンドは雪に埋もれているため、ピロティと呼ばれるコンクリートのところを長時間走らされたり、坂道ダッシュをしたりし続けた結果、シンスプリントになってしまったのです。
↑シンスプリントについてはこちらをどうぞ。
シンスプリントは普通であればしばらく安静にすれば治ります。
しかし、当時の首脳陣、チームメイトに理解がなく(そもそも誰もシンスプリントのことを知りもしませんでした)、痛みを堪えて走り込みを続けざるを得ませんでした。
その結果、オフシーズンが終わる頃には両足ともにボロボロで、普通に歩くことすらままならない状態にまでなってしまいました。
さらに私が打撃開花するきっかけを作ってくださったコーチも異動。
かなりショックだったことを覚えています。
春先の練習試合にもほとんど出れず、春の大会はベンチ入りはさせてもらったものの、ブルペンキャッチャーと声出し要員でした。
2月頃から毎日リハビリに通い、春の大会終了後の練習試合から再び試合に出られるようになりました。
正直言うとまだまだ痛みはひどかったものの、夏の大会のレギュラーを勝ち取るには1ヶ月ちょっとしかない夏季大会前の練習試合でアピールをするしかありません。
周りには治ったと言い、痛みを隠してプレーをし、始めは代打での出場ですぐにヒットを打ち、そこからまた打ちまくりました。
貧打で苦しんでいた代でしたから、首脳陣からすれば頼もしかったと思います。
こうして夏の大会の4番を勝ち取りました。
しかし、私の足はとうに限界でした。
最後の大会当日、これまでで一番の痛みが襲ってきていました。
試合は延長戦で惜敗だったものの、個人としては三振ばかりで、思い出すのが辛いくらいの結果でした。
試合後のミーティング、帰りのバス、自分の不甲斐なさに、ずっと涙が止まらなかったことを覚えています。
本当はこの大会で野球をやめるつもりでした。
でもグラウンドに忘れてきたものが多すぎて、もう一度取りに行きたくなったのです。
そこで親にわがままを言って、大学でも軟式野球部に所属させてもらうことにしたのです。
〇ピッチャーに挑戦した大学野球
そんなわけで上京した後も大学軟式野球部に入部。
野球部で選んだわけではありませんでしたから、入部して初めて知りましたが、その大学の軟式野球部は1部リーグ所属の全国大会常連チームでした。
当然レベルも高く、特に先輩の守備力の高さには本当に驚きました。
バッティングはそこそこ行けると思っていましたが、本当にそこそこでしかなく、試合に出ることは難しいと感じていました。
そこで長年夢見ていたピッチャーに挑戦することにしたのです。
幸い先輩方も、私がこのままではそれほど出場機会が無いであろうことと、ピッチャーが足りないこと(特に私の代)、地肩が強かったことなどから1年冬からのピッチャー挑戦を認めてくださいました。
ただ、先輩キャッチャーから言われた条件が、「サイドスローもしくはアンダースローにすること」。
先輩は私の身体の使い方から、サイドスローやアンダースローが向いていそうだと思ったそうです(サイドスローやアンダースローなら駒になるというのもあったと思います)。
当たり前ですが、マウンドから投げるのは全然違いますよね。
初めは100kmも出ませんでした笑。
そこから自分なりにかなり努力した結果、2年秋リーグでチャンスを掴みました。
3年生の絶対的エースが教育実習で抜ける間、先発起用してもらったのです。
その時点でも120km出てなかったと思います。
しかし、シュートとシンカーを習得。
夏の練習試合から安定した成績を残した結果、エース以外のピッチャーよりも「勝てるピッチャー」として選んでもらえたのです。
そのリーグでは3勝し、防御率も2点台前半と上々の結果を残すことができました。
が、そこが成績的にはピークとなりました。
その後、練習を重ねた結果、地肩も良くなり、遠投で110mも投げられるようになり、球速も130km半ばまで行きました。
しかし、球速が急激に伸びたからかコントロールが全くつかない状態に…。
後輩にスーパーピッチャーが居たこともあり、3年生以降、あまり目立った活躍もせずに引退を迎えました。
〇そこで終わりと思いきや…
実は、教員になってからもプレーは地味に続けていました。
週に1回の早朝野球と秋にある教員野球でした。
大学を卒業してから8年目。
選手と一緒にコツコツ練習をしていた結果、30歳になるシーズンで過去最高の仕上がりとなりました笑
課題だった制球難が克服され、朝6時からサイドから130kmのストレートと直前で沈む2シームを操るピッチャーに気がついたらなっていました。
早朝野球では最多勝、防御率0点台。
教員野球は優勝投手おまけにホームラン。
晩成だったんだと思います。
生まれてから表彰などされたことが無かった私は、30歳にして初めてトロフィーをもらいました。
〇何がきっかけで、いつ芽が出るか分からない!
ここまで恥ずかしながら私の自分語りをさせてもらいました。
私は本当は中学で野球を辞めるつもりでした。
それが、高校でもたまたま誘われて入部。
コーチに褒められて努力をするようになり、少しずつ開花しています。
誘ってくれた友人がいなかったら、コーチが見ていてくれていなかったら、私はホームランの喜びも何も知らずに野球を終えていました。
大学で野球を続けたから、家族が続ける応援をしてくれ、先輩がピッチャーをやる後押しをしてくれたからマウンドに上がる楽しさ(苦しさも)を知ることができました。
教員になってもめげずに続けたから人生初トロフィーをもらうこともできたし、(自分の中で)ピッチャーとして完成することができました。
選手として、飛びぬけたものはありませんが、それでも小学生、中学生のときに全く運動ができなかった私からすると、奇跡の成長です。
いや、本当は奇跡でもなんでもなく、そういう人はもっともっと潜在的にいるのではないでしょうか?
「努力すれば何でもできる!」
のようなできる人理論、できた人理論はあまり好きではありません。
しかし、日本のスポーツ界(特に野球だと思いますが…)はあまりにも早熟性を求めすぎていると思います。
↑詳しくはこちらの記事をご覧ください。
努力し続けたらできたかどうか、継続したら伸びたかどうかは個々に違うとは思いますが、早熟性を求められるあまり、早期に脱落し、自分の可能性に気が付かないことは悲劇と言えるのではないでしょうか?
我々指導者、及び保護者は、子どもたちをもっと長い目で見なければいけません。
選手の将来を見据えて、大きく育てることが必要です。
また、少年野球や中学野球でも暴言指導等がいまだに問題となっていますが、そうではなく、子どものモチベーションを引き出すような指導の工夫が求められると思います。
子どもたちは何がきっかけで、いつ芽が出るか分かりません。
その芽を摘まない指導をしていかなくてはいけませんね。
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